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幼稚園年中(ピアノ歴10か月) 講師の演奏です。
初めての発表会です。初めは、小学生と合わせる予定でしたが、急に出られなくなったので、代わりに私が弾きました。
ちょっと、前のめりなりそうなところもありましたが、よく頑張って弾きました。
小さい子が、ずっと同じ曲を持っていて、高めていくというのは、とても大変です。
この楽譜も、初心者向けの連弾譜だったので、そこからどうやってアンサンブルにするか、
どんなリズムにするか、とても迷いました。なんとか形になってよかったです。
交響曲第94番ト長調 Hob.I:94「驚愕」第2楽章(ビックリシンフォニー) ハイドン
ピアノ協奏曲第5番 K.175(382) 第3楽章「ロンド」 モーツアルト
交響曲第9番ニ短調Op.125 より「喜びの歌」ベートーベン
●古典派の音楽について
ソロ曲・プチ解説と作曲家年表
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「喜びの歌」は、「歓喜の歌」とも言われます。
ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章で歌われます。
日本では、年末になると、よく演奏されますね。
この曲に使われている詩は、「歓喜に寄せて」。
フランス革命の直後、シラーの詩作品「自由賛歌」がラ・マルセイエーズのメロディーでドイツの学生に歌われていました。
その歌声が、ベートーベンの耳にも届きました。
ベートーべンは、生涯にわたってシラーの詩集を愛読していましたが、
1792年に、この詩の初稿に出会い、感動して曲を付けようとしました。
ベートーヴェンは、当時22歳。
まだ交響曲第1番も作曲していない時期であり、まだまだ未熟でした。
実際に手掛けたのは、30年後の1822年 - 1824年にかけて、
書き直された「歓喜に寄せて」(1785年初稿、1803年改稿)という詩につけられました。
第9交響曲として1824年に完成した時には、1803年改稿版の詩を用いています。
交響曲第9番ニ短調『合唱付』作品125の第4楽章の歌詞に織り込むにあたって、
3分の1ほどの長さに翻案しています。
また、ベートーベンが自分が考えた詩を、冒頭に加えています。
バリトン歌手が独唱で歌います。
・「みんな!こういう音ではない!」
・「さあ歌おう、よろこびにみちた歌を!」
この詩に、ベートーベンの人生感や、
音楽に挑む気持ちが、集約されています。
耳が聞こえなくなったベートーベンが、卑屈になって、自殺を図ったり
様々な、苦労を乗り越えて、ようやく前向きな気持ちになったのです。
もっと違う音楽!
もっと喜びを!
もう、ここにいるベートーベンは、耳が聞こえない事、
そんなことには、こだわらなくなっていました。
精神的な強さに到達していました。
自分自身の幸せでなく、
よろこびに満ちる平和な世界をベートーベンは
願ったのではないでしょうか。
その精神を感じて、人々は今も、
「喜びの歌」を歌い続け、世界共通の言葉として、
世界中の人たちと、気持ちを一つにする。
災害が起ころうとも、絶対に私たちは、一つになり、
乗り越えて見せる!
この歌は、人類共通の言葉となったといえます。
交響曲第9番は、1824年に作曲されました。
ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲です。
(交響曲10番は、未完に終わっています。)
独唱と合唱を伴う交響曲。
表題は、ベートーヴェンがつけたものではありません。
交響曲第9番は、交響曲第7番から3年程度を経た1815年頃から作曲が開始されました。
さらに1817年、ロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け、
これをきっかけに本格的に作曲を開始したものと見られます。
ベートーヴェンは第5、第6交響曲、および第7、第8交響曲を作曲したときと同じように、
当初は2曲の交響曲を並行して作曲する計画を立てていました。
一つは声楽を含まない器楽のみの編成の交響曲であり、さらに別に声楽を取り入れた交響曲『ドイツ交響曲』の制作を予定していました。
しかし様々な事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となりました。
歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年頃です。
なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用さました。
1824年に初稿が完成。
そこから初演までに何度か改訂され、1824年5月7日に初演。
初演以後も改訂が続けられ、楽譜は1826年にショット社より出版されました。
この作品は、当初はロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈される予定でしたが、崩御によりフリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)に献呈されました。
献呈の際、ベートーヴェンに指輪が贈られましたが、
宝石鑑定士に鑑定させた結果、300グルデンと判るとベートーヴェンは安過ぎると怒り、
売り払ってしまったそうです。その指輪は今でも行方不明です。
初演は1824年5月7日
ウィーンのケルントナートーア劇場で、
(ベートーベンは、ベルリンでの初演を希望していた。)
ミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演されました。
正指揮者はミヒャエル・ウムラウフ。
ベートーヴェンは、既に耳が聞こえなくなっていたので、
テンポを指示する役目で指揮台に上がりました。
当時のウィーンには、長年の戦争でプロの演奏家は人手不足でした。
そのため、初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成でした。
しかも、この曲は、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成。
合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、
劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」。
ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、
男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、
ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えることに。
更に、総練習の回数が2回と少なく、かなり不完全だったという示唆があります。
加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていたとも。
この様な状態でしたので、初演は、ひどいものだったに違いありませんが、
大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送った。
と、『テアター・ツァイトゥング』紙に書かれています。
アンコールを何度もしたとも書かれています。
しかし、5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。
とも、書かれています。
初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデン。
「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でした。
(再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。)
ポイント1 型破りな形式
■形式
第1楽章 ソナタ形式
第2楽章 スケルツォ
第3楽章 瞑想的で宗教的精神性をもった緩徐楽章
第4楽章 4人の独唱と混声合唱「合唱付き」
元来、交響曲とはソナタの形式で書かれた管弦楽のための楽曲で、
各楽章の形式も、大体決まったものでした。
しかし、ベートーベンは、第3楽章にスケルツォ(本来ゆったりしたメヌエット)を導入したり、
交響曲第6番では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたりと、型破りな挑戦を続けています。
そして、交響曲第9番では、第2楽にスケルツォ、そして歌の導入です。
交響曲に声楽が使用されたのは、この曲が初めてではなく、ペーター・フォン・ヴィンターによる『戦争交響曲』などがありますが、
効果的に使用されたのは初めての事です。
ベートーヴェン以降、ベルリオーズやメンデルスゾーン、リストなどが交響曲で声楽を試みますが、
それほどでもなく、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、
マーラーの『交響曲第2番「復活」』が作曲された頃からになります。
ポイント2 新しい打楽器の使用
シンバルやトライアングルなど、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった打楽器の使用。
そりまでは、ティンパニ以外の打楽器を交響曲では使っていなかったそうです。
これは、驚きです。そういえばという感じです。
モーツアルトのシンフォニーにシンバルは、出てきません。
ハイドンのシンフォニーにトライアングルは、あった気がしますが?
後から、加えたものなのでしょうか?
ポイント3 彼を支えたファンの存在、以降の作曲家への影響
ベートーベンは、不幸が付きまとう音楽家のイメージが強く、
頑張っても頑張っても、認められず、貧乏だったという感じがしますが、
そうでもなかのではないかなと思います。
なぜなら、彼が、ウィーンではなく、ベルリンで、第九の初演を行おうとしたとき、
嘆願書まで出して、引き留めるファンの存在。
初演がうまくいかなくても、声援を送り、アンコールを求める人たち。
ベートーベンが亡くなったとき、葬儀には2万人もの人々が参列しています。
そして、プロの中にも。
シューベルが、ベートーベンの棺を担いだという話は有名ですが、
パリ音楽院管弦楽団を創立したアブネックもベートーヴェンの信奉者で、
「第九」をメインプログラムにしたいと、頑張り、
その演奏を聴いたベルリオーズや、ワグナーに、強い影響を与えました。
もし、このようなファンがいなかったら、ベートーベンのやった事は、終わっていました。
彼らの、功績は、大きいといえます。
そこから、膨大なスケールのシンフォニー、それ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持つ
シンフォニーが誕生し、ロマン派へと、大きな橋渡しとなりました。
ブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど
彼らは、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓しくことになります。
まさに、「第九」は、来たるべきロマン派音楽の時代の道標となった記念碑的な大作であるといえます。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ドイツ)
1770年12月16日頃 - 1827年3月26日
楽聖と呼ばれる