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ヘンリー・パーセル(1659年9月10日?-1695年11月21日)イングランド
ジャン=フィリップ・ラモー(1683年9月25日-1764年9月12日)フランス
ジェレマイア・クラーク(1674年-1707年12月1日)イングランド
クリスティアン・ペツォールト(1677年-1733年7月2日)ドイツ
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685年3月31日-1750年7月28日)ドイツ・音楽の父
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年2月23日-1759年4月14日)ドイツ出身イギリスに帰化・音楽の母
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1714年3月8日-1788年12月14日)C.P.E.Bach
ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト(1719年11月14日-1787年5月28日)ドイツ
ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(1732年6月21日-1795年1月26日)ドイツ・ビュッケブルクのバッハ
■特記
■メヌエットト長調 BWV.Anh.114について
「バッハのメヌエット」として親しまれている曲ですが、
これはバッハが2度目の妻アンナ・マクダレーナに贈った
「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」に
作曲者の名前を伏せて収めたために起こった誤解で、
近年、音楽学者のハンス=ヨアヒム・シュルツェらによって
ペツォールトの作であると修正されています。
■ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(J.C.Fバッハ)について
ヨハン・ゼバスティアン・バッハとアンナ・マクダレーナの第9子で、下から数えて2番目の息子にあたります。
活動地に言及して「ビュッケブルクのバッハ」とも呼ばます。
11番目の息子、ヨハン・クリスティアン・バッハ(J.C.Bach, 1735年9月5日-1782年1月1日)も
音楽家なり、ロンドンでヘンデルの後継者となった事から「ロンドンのバッハ」と呼ばれることもあります。
1782年の元日, ロンドンで急逝。
訃報を告げられたモーツァルトは、父レオポルト宛ての同年4月10日付の私信の中で「音楽界にとっての損失」と述べています。
追悼として、モーツアルトは、『ピアノ協奏曲第12番 KV. 414』の第2楽章アンダンテの主題は、オペラ『心の磁力 La calamita de' cuori』
につけられたヨハン・クリスティアン・バッハの序曲の中間部とほぼ同一の主題が使っています。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (C.P.E.Bach)は、バッハの先妻との間に生まれた次男で、音楽家。
J.C.Bachをバッハが亡くなったあと、引き取っています。
■ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルトと『ナンネルの楽譜帳』
18世紀の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽理論家。
ドイツのアウクスブルクに生まれ、オーストリアのザルツブルクに没した。
有名なヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのお父さんです。
『ナンネルの楽譜帳』は、A.モーツアルトの姉、ナンネルのレッスンのために、
レオポルドが作成した、楽譜です。
A.モーツアルトも4歳のときから、その楽譜で、父からレッスンを受けていますた。
『ナンネルの楽譜帳』の中には、A.モーツアルトが作曲した4つのピアノ曲(K.1aから1d)が書き込まれていたが、
ナンネルが後にその部分を記念に切り抜いてしまったので、長い間行方不明でした。
1954年、その楽譜がロンドンで発見され、レオポルトのメモ「5歳の最初の3ヶ月」という記載により、
最初の作品とされたK.1よりも前に作曲されたことが判明しています。
レオポルトは、A.モーツアルトにも、7歳の誕生日に『ヴォルフガングの音楽帳』(1762年)を
贈っています。32曲あります。
●バロック時代の音楽について
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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732年3月31日-1809年5月31日)オーストリア・交響曲の父 弦楽四重奏曲の父
ウィリアム・ダンコム(ダンカム)(1736か1738-1818年11月30日、または1819年)イギリス
ムツィオ・クレメンティ(1752年1月23日-1832年3月10日)イタリア→イギリス
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年1月27日-1791年12月5日)オーストリア・神童
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)ドイツ・楽聖
カール・ツェルニー(1791年2月21日-1857年7月15日)オーストリア
■特記
■ムツィオ・クレメンティについて
イタリアのローマに生れ、イギリスのイヴシャム没
作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者。
クレメンティは約100曲のピアノソナタを残しており、とくに1780年代にウィーンとロンドンで書かれたソナタは
交響的ソナタとしてベートーヴェンの先例をなす。
ベートーヴェンは、ピアノ曲に関してはモーツァルトの作品よりもクレメンティの方がピアニスティックで素晴らしいと評価しています。
1781年(29歳)12月24日ウィーンにて神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世に招かれ、
ロシアのパーヴェル大公(後のロシア皇帝パーヴェル1世)らをもてなす席で、
当時25歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと競演しています。
(その後、モーツァルトは、父への手紙においてクレメンティを酷評しています。)
■カール・ツェルニーについて
ベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストの師。
9才でベートーベンに弟子入りし、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491」を弾いています。
ベートーベンの「皇帝」の初演でピアノを弾いたのも、ツェルニーでした。
彼は、ピアニストとしての才能は十分あったのですが、内気な性格から、合わないと悟り、
みずから、教える側に回り、優秀な生徒を育てました。
教え方には、定評があり、ベートーベンも甥の教育をたのんでいます。
その成果の現れとして、現在も使われるピアノ練習曲を数多く残しています。
●古典派の音楽について
交響曲第94番ト長調 Hob.I:94「驚愕」第2楽章(ビックリシンフォニー) ハイドン
ピアノ協奏曲第5番 K.175(382) 第3楽章「ロンド」 モーツアルト
交響曲第9番ニ短調Op.125 より「喜びの歌」ベートーベン
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ヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラー(1806年12月4日-1874年2月13日)ドイツ
フレデリック・フランソワ・ショパン(1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もある-1849年10月17日)ポーランド・ピアノの詩人
ロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810年6月8日-1856年7月29日)ドイツ
フランツ・リスト(1811年10月22日-1886年7月31日)ハンガリー・ドイツ・ピアノの魔術師
ストリーボッグ(1835年9月28日-1886年)ベルギー
ジョルジュ・ビゼー(1838年10月25日-1875年6月3日)フランス
エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(1843年6月15日 - 1907年9月4日)ノルウェー・北欧のショパン
エドワード・アレグザンダー・マクダウェル(1860年12月18日-1908年1月23日)アメリカ
★ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809年2月3日-1847年11月4日)ドイツ
■特記
■ストリーボッグについて
本名はジャン・ルイ・ゴバールツ (Gobbaerts 、Jean-Louis) 。
ストリーボッグという芸名はゴバールツを逆から読んだもの。
ベルギーのアントワープで生まれ、ブリュッセル音楽院で学びました。
彼の書いたピアノのための作品は、シンプルなコードで、気軽な性格をもっており、
1200 曲以上出版されました。
しかし、詳しい作品年表はなく、不明な点が多いです。
■ヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラーについて
作曲家・ピアニスト。
ブルクミュラーはドイツのレーゲンスブルクで生まれました。
1832年以降は没するまでパリを中心に活動し、ピアノの小品や少数のオペラ、バレエ音楽などを作曲。
25の練習曲 作品100[18の性格的な練習曲 作品109 12の旋律的で華麗なる練習曲 作品105が良く知られています。
弟のノルベルト・ブルグミュラー(1810年 - 1836年)も作曲家・ピアニストで
将来を有望視されていましたが、26歳で夭折。(アーヘンで入浴中に、てんかん発作を起こしたことによる溺死だった。)
デュッセルドルフで行われた葬儀では、親友フェリックス・メンデルスゾーンの葬送行進曲に合わせて葬られました。
この「葬送行進曲 Op.103」は、
メンデルスゾーンの葬送行進曲 Op.103は、ノルベルトのために作られた曲です。
シューマンは「シューベルト(31歳で死去)の早世以来、ブルグミュラーの早世ほど悲しいことはない」と語り、
ノルベルトの早過ぎた死を悼んでいます。
シューマンは、第3楽章まで作曲中だったノルベルトの『交響曲第2番』を補筆しています。
★メンデルスゾーン、シューマン、シューベルトの関係は、「●ロマン派の音楽について」をご覧ください。
■即興曲第4番 嬰ハ短調Op.66 遺作 について
フレデリック・フランソワ・ショパンのとても有名な曲です。
1834年作
ショパンの4曲の即興曲のうち最初に作曲され、ショパンの死後1855年、友人のユリアン・フォンタナの手により
「幻想即興曲」(ファンタジー・アンプロンプチュ)と題して出版されました。
ショパンは「自分の死後、この楽譜を燃やして処分して欲しい」と頼みましたが、フォンタナが遺言にそむいて公表したとも言われています。
ショパンがこの曲を生前公表しなかった理由として
モシェレスの即興曲Op.89や、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」第3楽章のカデンツァとの類似性などが考えられていますが
定かではありません。
この作品の自筆譜は長らく見つかっていませんでしたが、ショパンの弟子であるエステ公爵夫人に献呈された1835年の自筆譜が、
1962年アルトゥール・ルービンシュタインによって発見されました。
これは筆写譜との相違が多く、よりあとに書かれたものとみられています。
ショパンの作品番号は、74番までは、「Op.」は付けられています。
「Op.」が付けられていない作品は、音楽学者のクリスティナ・コビラニスカ(コビラィンスカ)が作成した作品番号「KK番号」がついています。
「Anh. Ia」は自筆譜などの一次資料を欠く偽作・疑作につけられた印。
「BI番号」は、モーリス・ブラウンが作成した作品目録の番号(第2版)です。
■エドワード・アレグザンダー・マクダウェルについて
19世紀末のアメリカ合衆国を代表するロマン主義音楽の作曲家・ピアニスト・大学教授。
スコットランド系移民の父親とアイルランド系移民の母親の間に生まれました。
マクダウェルは多感な時期からヨーロッパ生活が長く、そのため自らを精神的にはヨーロッパ文化、
とりわけドイツやスカンジナビアの精神文化に帰化していると述べています。
1877年にフランスに渡り、パリ音楽院に入学。>
同級生(1学年下という説もある)にはドビュッシーがいました。
1888年に請われてアメリカ合衆国に帰国し、音楽教師やピアニスト、コロンビア大学の主任教授に就任するかたわら、
男声合唱団メンデルスゾーン・グリー・クラブの指揮者なども引き受けています。
メンデルスゾーン・グリー・クラブはマクダウェルの闘病生活のために募金を行なってマリアン夫人を支えたりしています。
■「抒情小曲集」について
エドヴァルド・グリーグが1867年から1903年にかけて作曲したピアノ曲集です。
全66曲。
6~8曲ごとにまとめられて出版され、全10集あります。
891年に出版された第5集は、「抒情小曲集」の中心をなす完成度の高いものです。
最初の4曲は作曲者により「抒情組曲」として管弦楽へ編曲されています。
グリーグはノルウェーの民族音楽から着想を得て、国民楽派の作曲家です。
卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、自作を携えヨーロッパをたびたび演奏旅行しています。
晩年のアコースティック録音およびピアノロールが残されており、現在も聴くことかできます。
生地であるノルウェーの旧首都ベルゲンの自然と海をこよなく愛し、
作風に表れています。
グリーグはグリーグは終世、手のひらに乗るぐらいの小さな蛙の置物や子豚のぬいぐるみを大切にし、
寝る時も一緒だったらしいです。
そして、演奏会の時は、あがらないように、ポケットの中で蛙の置物をそっと握りしめたそうです。
●ロマン派の音楽について
ユーゲントアルバムOp.68より「初めてのかなしみ」「勇敢な騎手」シューマン
ハンガリー狂詩曲よりS/G244-2 リスト
アルルの女第二組曲4曲「ファランドール」ビゼー
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クロード・アシル・ドビュッシー(1811年10月22日-1886年7月31日)フランス
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(1866年5月17日-1925年7月1日)フランス・音楽界の異端児
ジョゼフ・モーリス(モリス)・ラヴェル(1875年3月7日-1937年12月28日)フランス・管弦楽の魔術師
■特記
エリック・アルフレッド・レスリ・サティについて
音楽界の異端児、音楽界の変わり者などと称される。
パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になっています。
西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされており、ドビュッシー、ラヴェルも影響を公言しています。
『家具の音楽』と自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされます。
主に、酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏=家具のように存在している音楽というのは重要な要素でした。
また「官僚的なソナチネ」「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「冷たい小品」『「梨の形をした3つの小品」
「胎児の干物」「裸の子供たち」のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られています。
「子供の音楽集」は、次の3曲からなっています。
童話音楽の献立表
絵に描いたような子供らしさ
はた迷惑な微罪
●印象派の音楽について
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セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(1891年4月23日-1953年3月5日)ロシア
ドミトリー・ボリソヴィチ・カバレフスキー(1904年12月30日-1987年2月14日)ロシア
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日-1975年8月9日)ロシア
オットー・バース A.Barth(不明 20世紀)イギリス
ウィリアム・ギロック(1917年7月1日-1993年9月7日)アメリカ・教育音楽作曲界のシューベルト
■特記
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチについて
ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名。
シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、
世界的にも特に交響曲の大家と認知されています。
弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人です。
ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いですが、その一方でポピュラー音楽も愛し、
ジャズ風の軽妙な作品も残しています。
■セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフについて
ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。
13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。
20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソビエトへ帰国。
ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、強い個性で、
社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされています。
プロコフィエフの小品には、虫や動物の様子をあらわした「行進曲」など、
いくつかありますが、Op.65-10の「行進曲」は、兵隊の真似をする子どもたちの楽しげな様子を表していようです。
■ウィリアム・ギロックについて
アメリカ合衆国 の音楽教育家、作曲家。
ルイジアナ州ニューオーリンズでピアノ教師をしていました。
子供向けのピアノ曲の作曲活動を中心に、全米音楽倶楽部連合会の会長を務め、
ピアノ教師のための講習会でアメリカ全土を回りました。
■オットー・バース
生没年や詳細は分かりません。B.F. Wood Music Co という出版社から、20世紀の初頭に何冊か楽譜が出ています。
●近現代の音楽について
作曲家が、どの時代(○○派)の音楽家か、区分は難しいのですが、
生まれた年によって、分ける方法も、あります。
バロック時代 1600~1760
古典派 1730~1820
ロマン派 1815~1910
近現代 1900~
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