ロマン派音楽は、だいたい1800年代初頭から1900年代まで続いたとされています。
思想の影響
18世紀末から19世紀は、世の中が、ロマン主義運動の思想の時代です。
古典派音楽が、啓蒙思想の影響を受けたように、
ロマン派の音楽も、ロマン主義運動の思想の影響を受けています。
ロマン主義とは、理性や合理性を重んじる古典主義に対して、
自由な感性による感情表現や美の表現を尊重しようとする動きです。
ロマン主義者たちは自然を崇め、「自然に還る」ことを求め、
自然の名のもと、自由や力、愛などを崇拝し、非現実的な世界に憧れました。
現実に対し否定的な態度をとり、夢のような想像の世界を求めました。
ロマンチック、夢見る夢子ちゃん的な、考え方です。
たぶん、啓蒙思想の反動が、出たのではないでしょうか。
息抜きがしたい。
そんな感じなのでしょう。
自由になりたい。それぞれが、やりたいことをする。
感情が中心。
というのが、この時代の特長で、音楽も影響をうけました。
しかし、「ロマン」をそのまま音楽に当てはめると、「ロマンティックな音楽」という風に解釈してしまいがちですが、
必ずしもそうではなく古典派音楽に比べて「より大衆的な音楽」「より自由な音楽」という意味になります。
音楽史において「ロマン」の現れ方は、前期、中期、後期で異なるようです。
見ていきましょう。
優等生はつまらない。ちょっとはみ出たい!
初期ロマン派音楽は、1800~30ぐらいまでの時期です。
この時期の作曲家は、後期ベートーベン、シューベルト、ウェーバーなどです。
彼らは、急に甘い音楽を書いてはいません。
どちらかというと、古典派よりです。
古典派の形式も、受け継いでいます。
たた、きっちりではないというのが、みそです。
校則のように、ガチガチな古典派の規則に従うのは、なんだかおもしろくない。
なにか、しでかしてやろう。
と、少しずつ、冒険を始めるのです。
ベートーベンは、交響曲を書くたびに、新しいチャレンジをして、
交響曲の形式を自由なものに変えていきます。
「第二楽章が、スケルツォ」だっていいじゃん。
近親調、同主調でなくても、いいじゃん。
そんな感じです。
また、
それまでの交響曲は、程々の人数で、程よい時間内(30分程度)で終わるようになっていますが、
そういった、きちんと感が、つまらなく思え
程々の中に潜む、お行儀の良さ。感情のなさに耐えられない。
とばかりに、
自分の言いたいことは、短時間では言い尽くせないと、40分を超える大作を作り始め、
ダイナミックスさにこだわったりって
オーケストラの人数増え、大規模なものになったり。
こんな風に、型破りなことをして、優等生をやめる。
やりたいことをやる。
という事を始めたのが、初期のロマン派の人たちです。
いよいよ、ロマンチック・クラシックコンサートの完成
盛期ロマン派音楽は、1830~1850までです。
この時期の作曲家は、ロベルト・シューマン、フェリックス・メンデルスゾーン、フレデリック・ショパンなどです。
いよいよ、ロマン派という感じです。
彼らは、メロディーにこだわった人たちだと思います。
どうしたら、この気持ちを音であらわせることができるだろう、
もっと素敵なメロディーはないたげうか。
と、どの時代の人たちよりも、音に対する美意識が高かったに違いありません。
心の奥底を表現するロマンティックな音楽へと進化を遂げていきます。
現代人が、一番理解しやすい時代というます。
ヴィルトゥオーソの出現
この時代はヴィルトゥオーソと呼ばれる超絶技巧プレーヤーが多く輩出され、
熱狂的に、支持されました。
彼らのハイレベルな演奏は、人々の心をつかみ、音楽熱を高めていったのです。
最初に、パガニーニが、ヴァイオリンではじめ、
それを見たリストが、自分もやってみようと、始めたわ宇です。
リストは「超絶技巧練習曲」という作品も残しています。
亡くなった人たちの曲を演奏する
現代のコンサートのありかたです。
ですが、当時では大変珍しい事でした。
メンデルスゾーンが行った、100年ぶりのバッハの再演。
これは、大変な出来事でした。
この時代、バッハの音楽は、時代遅れなものとして、すっかり忘れ去られていました。
しかし、メンデルスゾーンは、14歳の時に祖母からマタイ受難曲の草稿の写譜をプレゼントされ、
ずっと研究していました。
そして、ベルリンで3時間を超えるマタイ受難曲を大幅に編纂し、演奏会を大成功に導きました。
1829年メンデルスゾーン20歳の時の事です。
この演奏会の成功によってすっかり忘れ去られていたバッハの魅力を人々に伝え、
バッハは再評価され、今日につながっています。
彼は、当時発見されたばかりのバッハの「3台のピアノのための協奏曲ニ短調」をゲヴァントハウスで演奏しています。
また、シューベルトの死後10年、忘れ去られていた『交響曲第8番』を公演し、大好評を博します。
1838年3月21日のことです。
(1838年2月にシューマンがシューベルトの兄フェルディナントの家を訪問し、すばらしさに気づき、
メンデルスゾーンに、楽譜を渡したのがきっかけでした。)
この公演によりシューベルトの作品は注目を浴びるようになり、
彼の残した作品の数々が研究されるようになりました。
この様にして、過去の作品に目を向け、故人の楽曲を演奏する。
という、現代のような演奏形態が、クラシック音楽のコンサートのありかたとして、定着したのです。
そのことで、演奏専門の演奏家が誕生していくことにもつながりました。
まさに、現代の形です。
民族色の高い曲の出現
後期ロマン派音楽は、1850~1890です。
この時代の音楽家は、後期リスト、ワーグナー、ヴェルディ、ブルックナー
ブラームス、フランク、国民楽派などです。
個性が強そうめ、面々です。
このころになると、欧州は鉄道や電信技術が発達し、社会が大きく変化しました。
また、民族主義が活発化し、国民楽派と呼ばれる自国の音楽性を重視する作曲家が多く現れました。
ロシア五人組などです。
リストの「ハンガリー狂詩曲」、ビゼーの「ファランドール」、
ショパンのマズルカ、タランテラなど、
民謡をもとにした民族色の高い曲も書かれるようになりました。
無調音楽、印象派へ
リストは、1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、
1877年の「エステ荘の噴水」は20世紀の印象主義音楽に影響を与えました。
このころ、すでにドビュッシーやラヴェルは活動を始めており影響が、ドビュッシーの「水の反映」に色濃く残っています。
同時にラヴェルの「水の戯れ」も刺激を受けて書かれたものであると言われています。
リストは、1885年に「無調のバガテル」で無調を宣言しています。
一方、ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」で、伝統的な和声を崩し
他の作曲家がそれを追随し始め、シェーンベルクらの十二音技法へとつながっていきます。
結果的に、ワーグナーの存在がロマン派音楽の終焉へと誘うこととなりました。
シューベルト、ブラームス、サン=サーンスは、ロマン派の中の古典派といわれています。
シューベルトは、31歳で、ベートーベンが亡くなった一年後に亡くなっていますが、
古典色が強くても仕方がありません。
歌曲は、ロマン派の色合いですが、器楽曲はまだまだだったという感じが残ります。
ブラームスは、性格的に、硬い感じの人だったので、
まじめさ、頑固さが、曲に現れた感じが強いですね。
当時、古典派は、「古臭い」といわれていましたが、
彼の音楽が評価されたのは、音楽評論家ハンスリックの存在です。
ハンスリックは絶対音楽を崇拝する評論家であり、ワーグナーの対比として、
ブラームスを高く評価したからです。
一方、サン=サーンスは、フランス人です。
前半生では、当時先進的とされたシューマンやリストの作品を積極的に擁護し、
協奏曲においては形式面や、独奏と管弦楽との関係において多くの実験を行い、
「現代音楽家」、革命家とみなされていましたが、
ワーグナーのワグネリズムには否定的な立場をとるようになったころから、
保守的とみなされるようになった作風による創作を続け、
フランスで、ドビュッシーやラベルが活躍する時代になると、軽視されるようになってしまいました。
ベートーベンとリスト
リストが、リストが、1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき
(11歳半)53歳のベートーベンに会う事が出来、賞賛されている。
ベートーヴェンの耳は、人の声はまったく聞こえなくなっていたが、
ピアノの高音部の振動はわずかに感じ取ることができていたらしい。
リストとシューマン
シューマンが、「子供の情景」を出版したとき、リストは子供に「毎日、何度も演奏をせがまれて困る。」
と、シューマンに伝えています。それほど親しかったという事です。
また、リストは、1848年、シューマンの歌曲集「ミルテの花」op.25の第1曲「献呈Widmung」を
ピアノ独奏用に編曲しています。
これは憶測ですが、前年にメンデルスゾーンが亡くなっています。
シューマンは、とても気落ちしていたといいます。
リストは、親友を亡くして落ち込んでいるシューマンを
慰めようとしたのではないでしょうか。
それほど、親しかったの言えます。
しかし、リストと、シューマンは、いつ頃出会ったのでしょうか?
シューマンとメンデルスゾーン
まず、シューマンは、メンデルスゾーンに出会います。
1835年、ライプツィヒにメンデルスゾーンが引っ越してきます。
市の要請を受けてゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督として移り住むことになったのです。
そこで、二人は、メンデルスゾーンを訪ねていきます。
クララとシューマンは、ライプツィヒに住んでいました。
メンデルスゾーンは、二人のあこがれの人物でした。
メンデルスゾーン26歳 シューマン25歳 クララ16歳
クララは、さっそく彼の前でシューマンの「ソナタ嬰へ短調」を演奏してみせました。
こうしてメンデルスゾーン、シューマン、クララの三人の間に、暖かい友情が急速に育まれていきます。
メンデルスゾーンは、1843年ライプツィヒ音楽院を設立したときに、シューマンを講師に迎えています。
また、シューマンは、1838年2月にシューベルトの兄フェルディナントの家を訪問し、
たまたま見せられた楽譜の中から、「交響曲第8番」の楽譜を目にします。
シューマンは、シューベルトが亡くなったとき、まだ、18歳で、お互いに面識はありませんでしたが、
ずっと、あこがれの存在だったのです。
この時は、シューベルトの墓参りに行き、その帰り道、シューベルトの兄フェルディナンドの家に
立ち寄ったのでした。
楽譜を見たシューマンは、シューベルトを小曲と歌曲の作曲家だと認識していた誤りに気づき、
交響曲第8番を世に放つために、メンデルスゾーンに譜面を送ります。
メンデルスゾーンは、ショパンがライプツィヒに訪れたとき、
ショパンをヴィーク家に連れていき、クララとシューマンに引き合わせています。
ショパンの前でもクララはシューマンの「ソナタ嬰へ短調」を弾き、ショパンに紹介しています。
ショパンとリスト
ショパンとリストが出会ったのは、1832年頃。
ショパン22歳、リスト21歳。
たぶん、メンデルスゾーンも、一緒に出会ったのではと思います。
メンデルスゾーンは、22歳。
みんな年も近く、すぐに打ち解けます。
ショパンとリストも始めは、良い関係でした。
しかし、二人のパトロン、ジョルジュサンドとマリー・ダグーのせいで、
こじれてしまいました。
どちらも文筆家でしたが、マリーが、ジョルジュサンドの陰口をたたいたり、
ショパンの悪口を書いたりしたのでした。
また元々、性格的に、相反する二人です。
ピアノのレッスンの仕方も、真逆だったという記事を読んだ記憶があります。
ショパンは、超絶技巧で、完璧なテクニックに驚きながらも
芸のように、ピアノを弾くリストのやり方を嫌っていました。
リストは、「ショパンは上流階級だけの狭い世界に閉じこもったままだ。」
(本当は、マリーがリストの名で書いただけだった)
と、言い合いになってしまった時期もあったようです。
しかし、リストは、ショパンがなくなった後、ショパンのような、
繊細な曲を書こうと努力したり、自分で伝記まで書き上げ
本当は、彼の事をみとめていたといいます。
ショパンの作品を自ら好んで弾くことも多かったようです。
シューマンとブラームス
忘れてはいけないのは、ブラームスの存在です。
ブラームスは、1853年9月30日、がヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家を訪れました。
当時、ブラームス20歳、シューマン43歳>
ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、
何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて
もう一度最初から弾いてくれといったそうです。
これから、二人の師弟関係が始まり、シューマンが亡くなった後も、
フラームスは、クララを支え続けました。
ブラームスは、クララをしたっていたのかもしれません。>
1869年夏ごろから、三女ユーリエにも、心を寄せていましたが、
けして、打ち明けることはありませんでした。
これが、ブラームスなのです。
リストとビゼー
1861年、リストは新作を発表。
「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ」と豪語していいました。
ところが、ビゼーは、パッセージを一度聴いただけで演奏し、
さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけ、リストを驚かせました。
この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。
正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」
といってビゼーを賞賛した。
この時、ビゼー23歳。リスト50歳。
かつて、若き日のリストと晩年のベートーベン。
同じような出来事がありました。
こうして、受け継がれていくのでしょう。
しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストにることは、まったく考えませんでした。
ユーゲントアルバムOp.68より「初めてのかなしみ」「勇敢な騎手」シューマン
ハンガリー狂詩曲よりS/G244-2 リスト
アルルの女第二組曲4曲「ファランドール」ビゼー
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