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小学2年(ピアノ歴3年11ヵ月) 4年(ピアノ歴2年11ヵ月)の演奏です。
二人とも、初めての発表会でした。ピアノの子は、緊張しすぎて、
バランスまで、気がいかなかったようです。
最初の部分は、小さく、自分がメロディーになったら、大きくといってあったのですが、
みんな同じになってしまいました。
今後の課題ですね。
5手連弾の曲をアンサンブルにしてみました。
どんなリズムにするか、迷いましたが、良い出来だったと思います。
交響曲第94番ト長調 Hob.I:94「驚愕」第2楽章(ビックリシンフォニー) ハイドン
ピアノ協奏曲第5番 K.175(382) 第3楽章「ロンド」 K.382 モーツアルト
交響曲第9番ニ短調Op.125 より「喜びの歌」ベートーベン
●古典派の音楽について
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通称「ビックリシンフォニー」は、ハイドンが、作曲した交響曲第94番ト長調 Hob.I:94「驚愕」の
第2楽章です。「アンダンテ」とも、言われます。
この曲は、1791年の一回目のロンドン旅行の際に、作曲されました。
とても有名な曲で、ハイドンの12曲ある「ロンドン交響曲(ザロモン・セット)」の一曲です。
「驚愕」という題は、ハイドンがつけたものではなく、
初演地の地元・ロンドンで発行された新聞紙上に掲載された演奏評に由来するものです。
訳は、作曲の経過を読むと、納得できます。
ハイドンは、長年、お抱え楽団の楽長として、貴族のニコラウス・エステルハージ侯爵と同候家に使えてきました。
同家で開かれる晩餐会や、食卓向けの音楽を作る創作活動を行ってきました。
ところが、1790年にニコラウス・エステルハージ侯爵が死去すると、
後を継いだ息子、アントン・エステルハージ侯爵は、父親の音楽愛好を受け継がず、
同候家お抱えの楽団を解散してしまいました。
(よくある話ですね。)
ハイドンも同候家を去り、自由な立場の音楽家としてウィーンで暮らすことになりました。
そんな時、ハイドンのうわさを聞き付けたボン出身のバイオリニストヨハン・ペーター・ザーロモンが、
声をかけてきました。
「ロンドンに渡って自分が主催する演奏会のため作曲して欲しい」と依頼したのです。
彼は、音楽家だけでなく、興行主という顔も持っていました。
ハイドンは。驚きましたが、自由になったし、破格の待遇内容も併せて提示されたこともあり、
依頼を引き受け、二度にわたり、ロンドン旅行をすることになります。
最初のロンドン旅行は、1791年から92年にかけて。
二度目は、1794年から95年にかけて。
そこで、1791年に作曲されたのが、交響曲第94番ト長調 Hob.I:94「驚愕」です。
初演は、1792年3月23日でした。
ハイドンは、ロンドン滞在中に目の当たりにしたのは、聴衆のマナーの悪さだったといいます。
たぶん、侯爵帝に集まる貴族たちに比べて、当時のロンドンの聴衆は、音楽会になれていなかったのでしょう。
演奏の途中で退屈になり、居眠りをする者が少なからず存在しました。
このことに癪に障る思いを抱いていたハイドンは、持ち前のユーモアさを活かし、
演奏で、聴衆をたたき起こそうと行動を起こしたのです。
そして実際に、第2楽章冒頭の主題が、最弱音で2度繰り返し演奏された後の16小節目に於いて
強奏箇所のところでハイドンはティンパニ奏者に対し力一杯叩くよう指示、
狙い通りに聴衆がビックリして飛び上がったといいます。
ハイドンは、どんなにすっきりしたことでしょう!
そして、初演から間もなくして、ロンドンで発行された新聞紙上に「驚愕」と載ったのです。
交響曲第94番ト長調 Hob.I:94「驚愕」
■形式
第1楽章 「Adagio - Vivace assai」。ト長調、3/4拍子の序奏と6/8拍子のソナタ形式(提示部反復指定あり)の主部からなる。
第2楽章 「Andante」。ハ長調、2/4拍子、変奏曲形式(主題と4つの変奏)。
第3楽章 「Menuetto. Allegro molto」。ト長調、3/4拍子、3部形式。
第4楽章 「Finale. Allegro di molto」。ト長調、2/4拍子、ロンドソナタ形式。
Hobは、ホーボーケン番号。ハイドンの音楽作品に付された作品番号です。
オランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケンが著した「ヨーゼフ・ハイドン主題書誌学的作品目録」
(Josef Haydn, Thematisch-bibliographisches Werkverzeichnis) に従う番号です。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(オーストリア)
1732年3月31日 - 1809年5月31日
交響曲の父 弦楽四重奏曲の父
弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。